昭和44年05月06日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 合楽では、段々おかげを頂いて、ここに「本当の信者じゃ」とこう仰る、そういう本当の信心を、身に付けていっておる方達が多いと思うんです。あとで考えてみて、あれもおかげである、これもおかげであると。「あとで考えて」とこう、言うておられます。確かにあとで考えて本当にあれもおかげじゃったと、皆さん分かるように段々なってこられて、ね。いわゆる過去のそれが生きてきた。
 そん時にはおかげとは頂ききらなかったけれども、段々あとで考えてみると、本当に、神様の、お働きというか、ご守護の中に、あってあれがあっておったんだ、これがあっておったんだということが分かると。夕べ壮年部会で御座いましたが、色々あの昨日はいつもあの壮年部会は私、入らせてもらうんですけれども、本当にいつも有り難い雰囲気、有り難いお話を頂くんですがね。
 昨日も、秋永先生が、2、3年前のことを、こういろいろ出して、考えてみるとそのことがいろいろもた、もたついておって、どうしたことじゃろうかとこう、思うのでございますけれども、実際は三年、または三年も以上も経ってみて初めて、本当にあれがおかげであったということがね、こういうふうなおかげになってきよりますからね、というてその、事実を挙げて話しておられましたが。
 ねえその、もう絶対おかげと思われないことがです、おかげであったと分かってきよるですから、もう本当の信者、いうことになる。そういう意味でならですね、私、合楽では皆さん、合楽で、信心を詰めてなさっておられる方達は皆、一応、その、そうした、三年前のもう、十年前と比べてみれば、例えば、過去のことも、その時はおかげと受けられなかったことをです、おかげと感じておる。
 昨日のあの、御祈念済んだ後に、最近、ちょいちょいそういうお届けをいたしますけれども、上野さんが、もう思えば思うほど、泣かずにはおられんっち言うてから、お礼を申しておるんですよね。本当に、ああいう難儀な中、ああいうこと、様々な、過去のことを思うと、もう本当に、ようもようもああいうとこ通らせて頂いたと。通る時にはもうひとっつもおかげとは思いきらなかった。
 本当に自分のようなお人よしな者があるだろうかと、思うた時代もあったけれどもそのことがです。このようなおかげになってきよると思うたら、やっぱ泣かずにはおられんと言うて。ね、過去のことがみんな生きてきた。信心はそこが素晴らしいですよね。ですから、ここんところは私は、本当の信者じゃとこう、言うておられますから、結局、合楽ではそういう意味合いにおいてはです。
 過去を生かしうる、信心がだんだん身に付いてきたと思うですね。まあ皆さんここに朝参りをなさる方達は、まっ殆ど私それは出来、それが分かられる方達ばっかりだと私は、確信しますが。してみると本当の信者が合楽には、育ちよるということになります。けれどもその私が言うておるのは、いつもこの本当の信者以上の信者、とでも申しましょうかね。御理解、次のね、54節をごらんなさい。
 53節から54節を頂きますと「徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない」。ね、いわゆる神徳の世界。ね。神徳を受ける神徳の世界に入らなければ、信心頂いとる者の値打ちはないんだと、私は極言するわけですねいつも。だから合楽の信心はいわあば、ま、難しいという人があるわけです。そうすると例えばですねあれもおかげであった、これもおかげであったとあとで分かるのではなくてから、もうその場で分かるんですおかげということ。その場で、お礼を申し上げられる。
 そのことも夕べの壮年会で、いろんな例を聞いて話があり私も話させて頂いていたんですけれども。例えばですよはあそれは困ったことですね、難儀なことですねと言う様なことでも、あとで考えてみるとこれがおかげになることは分かるんだけれど、そん時はおかげではない。けれどもですその時そこ徳のない間は心配しておるわけですけれども、神徳を受けると心配はないと仰るのですから。
 例えば人困ったことだと言うてくれるようなことでも、いやこれがおかげだとこう、もしそ、その時に頂けたら、もうあなたは、徳の世界に入ってるということがわかるです。もうあなた5年信心を続ける、10年いや、20年も信心を続けておるじゃないですか、もう神徳を、の世界にもう一歩足を踏み入れとると言った様な、もちろん神徳の世界というのは限りがありません。
 ですけれども、神徳の世界に入(?)はあ自分も徳を受けよるなということを、その自分の内容、またはその自分の、実感を持ってですね、はあこれは信心がないならどうじゃろうか、それこそ大変なことじゃろうけれども、私の心の中には実感として、そのことに対してお礼が申し上げられておる自分を思う時、はあ自分はこうして徳を受けていきよるなということが分かる。ね。
 あれもおかげ、おかげである、これもおかげであったと解る様になると了解が出来る様になると。そこの意味合いが段々解って来る様になると、本当の信者じゃと仰るんです。ですからここんところを私はいつも本当の信者から、ね、本当の信者以上まあ信者以上の信者はちょっと、やっぱそれはなりますね。そういうおかげを頂くために今度は、52節にね、「信心する者は驚いてはならん。
 これから後、どのような大きなことができてきても、少しも驚くことはならんぞ」と、まあ厳しゅう教えておられます。それこそ目の前が真っ黒なるような驚きのことが、例えばよし起こってきても、信心する者は驚いてはならんと。これはなかなか難しいことですけども、ね、徳の世界にいわゆるお徳の世界と言うか、神様のお働きにというものがです、ね、そつがない無駄がない。
 ただ氏子可愛いという一念のみ、神愛の中にあってこの事が起きておるのであるから、この事もおかげであると分からせて貰う、悟らせて貰う驚かんで済む訳です。信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。この辺の所がですねえ、この辺のところを一つ大きな信心を頂いておらないとできんようすね。久保山先生の明日事故(?)の時に、東京から子供達が、かえ、飛行機で帰ってまいります。
 飛行機、飛行機からここまで自動車でここへ直行して参りました。その道々皆さんが実感した事は「合楽の曙」「合楽の曙」という事だった。ね、そしてここへ開口一番その事だった、お礼を申し上げられたのは。そういう所がですね、是は教えて出来る事ではないですけれども、やはり大きな信心をさせて頂いておらんと、そんなはぁあれだけ打ち込んだ父がしかも合楽のかえ、椛目からの帰りにそういう事になって、もう本当に神も仏もあるもんかと言うても、一つもそう所じゃないと誰でも合点して。
 いわゆるそれにまあ言うなら同情するはず、ぐらいの大きな事に直面してですたい。ね、久保山中心ではなくて、合楽なら合楽を中心にして考えておる、信心が続けられておるという事がです、ね。これが合楽の曙の元にならんはずはないとこう、確信できる所からね「合楽の曙、合楽の曙」と言うて、そのここまで参りましたというてお届けをしております。親を亡くすしかもそうした事で、亡くなられたという事であっても。
 信心させて頂いておればです、そういう頂き方こそがね、私は本当は合楽の信心私が頂いてほしいと言っておるのはそこである。これは私じゃない神様が願うておられる信心は、そういう信心だと私は思うんです。昨日いす御祈念終わった後へでした。高橋さんがお参りして。最近このいわゆるゴールデンウィークですね、この連休でございますから、お店がやはり繁盛いたしております。
 ところがその天候がこ、毎日さあ今日はどうだろうかと、テレビでラジオではこう言うておるがどうだろうかと、さあというわけに間に合わんのですよねえ。沢山の例えばお弁当を作る、注文なんかがあるのでございますから、そういったもの仕込んでしとかなきゃなからんし、また作るからにはもう前その徹夜で作っとかなきゃならんと言う様な事ですから、実にやはり難しい商売だと思うんですよね。
 その日も香椎花園の方からお弁当が500、注文があったと。こちらの野球場の方からは700からの注文があっとった。それで朝参ってみてお届けをされてから、どげんさせて頂きましょうかという、前の日にお届けがあっとった。香椎花園の方は500注文がきとるけれども300位にしときなさい。香椎花園の方はじゃない野球場の方は700きとんならそのまま受けて、出来るように全部しときなさいという事であった。
 そうそこでその昼は香椎花園夜はその野球の方ですね。所がです所がそのもう300のお弁当はもう瞬く間に売れたわけですよね。それからあげん500っち言ったとに、そのちょこっとばっかり持ってきてっちいってから、だからもうでけただけ持っていくわけです。それでもう持っていくたんびに、おごられるそうですもんね、向こうの方から。ほんなこげなっこしとるけんもう。
 そしてもうその日に限ってその、さあ自転車がパンクした、なんて言うですかあの単車のごたっとのスクタ、スクタの鍵がのうなったっちいうごたるとで、もうてんやわんやだったとこういう。その事をお届けされるのに、もうとにかくその第一香椎花園の方が300と言われておる所からが、そもそも間違いの初めじゃったというて、お届けをされるんです。もう一日中もうとにかく、てんやわんやで。
 その上例えば人間が足らんから新しい人を雇ってくる、と言う様な事でやったとこう。で私ずっと聞かせて頂いておってから、最後に結局ならどういう事だったのと、ね、もう商売の売上の方は、結局どういう事であったかというたら、例えばやはりあ余る所か沢山のお弁当がてんやわんやしたけれども売れた。そんなら高橋さんもう昨日はもう、てんやわんやじゃございましたけれども、広大なおかげを頂いてとお礼を先に申し上げたらどうのと。あんたがた何時もそげなっこつっち、私はいっつも言うわけです。
 この辺はねもうお願いをさせて頂く、おかげを受ける一つのきびなんだと。ね、大体高橋さんの信心としては、皆さんもご承知のああいう信心なさっておる。その前もやはり香椎花園の方から500の注文があっておって、その前の前の日でしたでしょうか。ところがその、弁当が44余って帰ってきた。言うならば500の約一割ですから、やっぱ大きいですよね。一割の儲けがぽんとなくなるわけですから、ね。
 けれどもそのその前々日でしたか、あちらの長女、佐多美さんというのが、自動車にしかって亡くなったお知らせを頂いた。そのことをお願いさせて頂いて帰り道々です、本当に今可愛い盛りのあの子供が自動車にしかって死ぬなら、どげんあるじゃろうかと思うたら、もう本当に泣き泣き( ? )帰りましたとこう。それで神様、本当にそういう運命の元にあるなら仕方がない事ですけれども。
 ここん所をどうぞおかげを頂かせて下され、そのためなら親の私がどのような修行でも致しましょうと言うて、帰りましたという事です。そこで例えば願うた事が右が左左が右だという事になったらその事がですはあ、その事のお取り払いだとこう気付かせてもろうて有り難いと分かる、分かる高橋さんが例えばそのまあ自分としては、実感をお届けすると、こういうわけなんだけれどもです。
 そのへんのところをその実感が、広大なおかげを頂いてという所が先に頂けるくらいの信心を、もう頂かにゃいけませんよというてお話するわけなんです。親先生がお弁当は香椎花園に300っち言うちゃるもんじゃけん、300作った所がその300は瞬く間に売れた。さあ次から次からと注文がある。もうその忙しさそこへんのタイミングの悪さ、向こうからどん、行くたんびに怒られっちから、ほんちょいぃとこげなん第一、一番そもそも300っちそこん所からが間違いました。
 もうとにかくそのもう(  ?  )ぐらぐらするごたる、成程そりゃ初めから500と言うときゃよかっとろうばってんですたいね、そこに、しかし、金光様のご信心があるとですよ。そして一日を締めくくってしもうたら、さあ香椎花園が終わった、夜はさあ野球場だと平和台。ここはもう、始めから向こうから言うとる注文を受けとけっていうことやったから、わあとこう受けてる。
 まあこれは余談(?)昨日なんかは、香椎花園園の方は、注文だけ作っとけと。すと平和台の方は、天気予報聞きながら、見ながら作れっていうことやったです。昨日はおかげでおかげ頂いとんじゃないかと思うんですよね。もうお湿りも、ああさん、もうお昼のお弁当後でしたから。同時にてれあの天気予報聞きながらだったから、昨日はもう降る降ると言うとるから、恐らくそのまぴしゃっといったのじゃないかと、まあ私は思ってるんですけども、その前の日はそうじゃなかったそうだった。
 でそこん所をてんやわんやしてしてしたけれどもです、まあなら一日を締め括ってみるとどちらの方へでも、言われた通りの事が出されてそりゃバタバタ忙しい、タイミングが悪かったというだけですけれどもけどもここん所を一つ本当におかげと。例えばその500その前の前の日の500の時に一割もの弁当が余ったというな時にです。高橋さんがどう頂いておるかというと、はぁお取り祓いを頂いたとして御礼を言うとるね。
 しかもそれが44じゃったけん、ね、もうすぐピンときたっち言うです。是はとても一割位なそんな位な事じゃないお願いをしとる、例えばあの巡りのお取り祓いの為の是であると思わせて。店のもんがどんなに、はあもう大将から本当馬鹿らしいこっちゃったっち言う、言うたっちゃ、そげなこつじゃなかぞおかげぞと、言える高橋さんが、昨日はそういうその例えばもう第一御神意を頂いて、先生が初め300っち言いなさったそこから間違い、間違い始めたとこう言うわけなんです。
 あの人大体そういう事あの先にです言うんですよ。これ皆さんの中にもあるんです。だから例えて言うとですよ、私昨日例え日曜の日が私の歯がもう終わるの日でした。その前の日が終わったんです。それで正義さんと茂さんとお礼に行ってくれました。私もお礼のもん買ったりせんなんから一緒に行きました。まあ日曜ですからもう閉めてしまった。(?)幸い、まあ先生おられましてからねもう本当に調子がいいです。
 もうほうんなこと言うたらですよ、私はもう自分の歯よりもよかって言いよるばってん、ほんなこと言うたら自分の歯がよりよか。そりゃこげな大きなかな、金具を中に入れてあることですから、よかろうはずがないです。けれども私はもう、本当にもうありが、あのもう調子が、もう一遍でんこう言うたことがないです。それよりももう先生のおかげでとっても調子がよございます、はあもう喜びなさることがですね。
 もう何かそれこそ、何ち言うでしょうか、そうに喜ばれますそんかわり、一生懸命でやられますから。そのやったのがとにかく、その患者さんから喜ばれることが、あの先生の生きがいと思われるくらいに一生懸命喜ばれます、ね。そうしてから、ちょっとここんにき当りますけれども、これは一時私が辛抱しときゃ治りまっしょっち言うたら、んにゃそれはっちもう、日曜ですから電気が全部とめてあるんですよ。
 お湯も沸かさなんならん、電気もわかさなんならん、そりゃあまたそのお医者さんの白いエプロンをかけてからですね、もうだいたいなら日曜日ですから、んならまた明日でん来てくださいっち言うたっちゃよかとこですよ。あれがどうでしょうかね、折角見せてもらいましたばってん、どうもここがあたっていきまっせんっち、言うこと言うたら、なら明日修繕してあげましょうっち言いなさったかもしれませんですよ。
 けれどもね、このへんが、私はおかげを頂く、これは神様でも人間でも同じって私。道理を、道理に合う信心とか、ものの道理を見てからとおっしゃるでしょうが。ですから、本当に信心、それがなら言葉だけじゃいかん、本当におかげと思うとるから、それが出てくるんですよ。おかげで調子がよございますと。信心でもそうです、よくよく考えさせて頂いたら、てんやわんやのことではあったけれどもです。
 それが例えばですよ、んならそれによっておるようなことであってもです、よくよく考えさせて頂くと、おかげであるとは分かる筈、椛目でから合楽にかけての、信心の稽古させて頂いておるなら。そこで広大なおかげを頂いて有り難うございますと、こういうことになるね。その先に、実はあの300っち言うてあったつが、もう次々次々(  ?  )そりゃてんやわんやでございましたと、言うたっちゃよかとこだと。
 例えばねお礼を先に申し上げるそこん所を、甘木の初代なんかはお礼八分に願いが二分と言った様な意味の事を言うておられますもんね。そこで私昨日壮年会ですから、久富勇さんにも言うんです、久富さん勇さん達の御本部の信心はとにかく謙虚な信心ですからね。ですからもう、こっちはその不平不足のこつじゃなかです。もう一番始めがお詫びです。すいません私の不徳の足らんと言った様な事です。
 けどもこれもいかんて私は言うんです。ね、そのことはお礼を申し上げる事を先にする、信心性格というものを頂かにゃいかん。これはね私があの善導寺教会からあの、久富正義さんとこあたりにお話行っとります時に、もう断食から断食が続いておる時分です。あちらのお父さんが今度の大坪さんに来て頂く時に、ちっとばっかり早よ時間ば来て貰えっして何かお御馳走なっとんいっちょあげれないかっというふうで。
 まあ内々で話しがあったらしいそれけん二時間ばっかりはよ来てくれっちいうことで、二時間ばっかはよ行きました。そしたらもう勝手の方でなんかこう、お客かなんかあるごと、色々てんやわんやしよんなさいますもん。でその当時砂糖のない時分にあの牡丹餅がでけておりますし、酒はない時分ですから、お父さんがどっからか焼酎を手に入れてきそんなさいました。
 それからあもう今日はいっちょ、あのあぁたにあがって頂こうと思うち、こげんしとるけんでち。所が私は断食をしとる時ですから折角ばってんか頂かれませんとこう言うた。まあ大坪さんそげなんこつ言わんずに神様に一遍お尋ねしてみて下さい、私共が真心でこげんしとっとばいかんち言わっしゃる筈はなか。とにかくお尋ねをして下さいっち言うていわれるもんですから、御神前で手からお伺いさせて頂いたんですよ。
 こうげんいうて頂きますから、頂いてもよかろうかという事をお願いさせて頂いたら、食べたい「伺う心は食べたい心じゃ」と神様が仰ったんです。もうお前がお伺いをするという事はね、お前が断食をいつまですると決めとんなら、そんな事はいいえそんなわけにはいけませんと言うて、なぜ断らんかという意味なんです。もうお伺いをする時にはもう、もうお腹ん中ではグーグーいうっちから食べとうて堪えんとじゃん。
 それけんお前がお伺いしよるという意味の厳しいことでした。そんなら食べますめえと、と、こういうたっちゃ、もうでけんそげなこつ、向こうの気持ちも受けないけんから、まあ頂けというようなその、ような雰囲気の中にです、頂いた所がさあどっこい、そん断食から断食をしとおる時ですから、私焼酎飲んどるけんもう(笑)、もうそれこそ酩酊してしもうとるです。おはぎだけはもう頂きませんでした。
 これはもう家のもんが、そのう甘いもんてんなんてん頂いた事ない(?)なら是はいっちょもう頂いていきましょうっち言うてから、だからお重箱に詰めて下さってですね。もうお神酒頂いただけで酩酊ってしもうた、ね。そこで私がですその酩酊した、それで神様の前に出らせて頂いてからもう神様今日は、もう本当に久しぶりに、こげなよい機嫌にならせて頂いて、酩酊させて頂きましたっち言うてから、ご神前に額ずかせて頂いたとたんに、神様が下さることがですね。
 毎日がですよ好きな酒でも頂かせてもろうて、今日もええ気分にならせて頂きましたと、お礼が言えれるような、おかげを神が願うておるのぞと仰るのです。ね、毎日毎日がです、ね、お酒の好きなものが、晩酌の一つでもさせて頂いて、よい気分にならせて頂いて、お礼を申し上げれるようなおかげを、お前がさあ焼酎一合でも買おうというても買いもできない中にです。
 こういうおかげを頂いてこういうおかげが続く事を、神の願いとしておるのぞという事を頂いたがです、もしその時に私がです神様すいません、私がいやしゅう御座いますからな、ちゃんとその飲んだり食べたりしてしまいましたと言うて、あん時に私がお届けしとったら、それこそ厳しゅう怒られたに違いはないという事です。この辺の所はもうお取次ぎを頂く、もうきびですよおかげを頂くきびです。ね、
 自分の心一つで、お叱りを受けなければ成らない様な事にもなれば、または神様が喜んで下さる様なことにもなる。ほんそこんにきはですね、これは本当に信心を真剣に稽古させて頂かなければ分からないきびです。本当言うならばもうお叱りを受けなければならない。もその罰罰にまいっちょ断食せろと仰れる様な所でしょうけれどもです、こっちが久しぶりに酩酊のおかげを頂いて有り難う御座いますと。
 そのお礼の心からのお礼には、神様もどうにもしようがない。どころかそれを喜んで下さる。久しぶりもう酔わせて頂いてよかったねと言う様な所である。高橋さんのそのことも、私は昨日そのことを私が話すんですよ。ね、あんたがごと一番始めから、御神意をこうやって始め300っち言いなさった、もうそもそもそこから間違うとり、とりましたというて間違うとった困った事ば先にこうずっとお届けする。
 それけ私は黙って聞きよってからなあ締めくくってから、結果はどげんじゃったの、結果はもうそりゃやっぱ向こうから注文で売れて、ただ忙しい思いをした、ただ怒られたというだけの事がちっとモヤモヤしてるわけなんです。だからこの辺の所をです、例えば今日の御理解に、ね、もう高橋さんの場合なんかはもう本当の信者どころではない。しかも徳の世界に一歩踏み入れておる感じがするんですけれども、ね。
 ただお届のしか仕方というのじゃなくてその、お届けをする時の実感がですね、本当言うたら、すいましぇんという、あの、お詫びよりも、何よりも、そこんところを私は甘木が、ね、お礼が八分と仰る様な所はですね、もうそのお詫びをしなければならないような事柄の中から、この様な事が分かったとするなら、お礼ですやはり。今度のことでは本当に、おかげを頂きまして有り難うございましたと、それこそ合楽の曙、合楽の曙というて、もう神様の方が感動ましてござるという感じでしょうが。
 このような父親、こういう時に、あれだけ信心しよるとにどうしてそげなことが起こったでしょうかと言うても、神様の方はなあ、それももっともだと言うてくださるような中にあってです、むしろ神様の方が元気付けなさるごたる感じです。合楽の曙合楽の曙、この父の死が合楽の曙の元を作らんはずはない、そういう、例えば生き方信心、ね。そういうところへですね、私は、今日の53節を頂くんですね。
 ただしそこ一番始め、「信心すれば」でございます。ね、信心すれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。秋永先生が言うておられる、三年も前のことどうしてとこう、思うようなことだったけれども、今から考えてみると、本当に神様のお働きの在られ方というものがね、こういうおかげをくださるために、こげんじゃったけんのというて話しておられますようにです。
 もう本当にあれもおかげ、ああいう難儀な事を、あれもおかげであったと分かっておるという事は本当の信者。けども合楽でもその本当の信者以上の信者、信心言うならばその前の52節のどの様な事が起こってきても驚かんですむ信心。徳のない間は心配する徳を、神徳を受ければ心配はないと教えられる、ね、もう神徳の世界に踏み入っての、信心お話を私共はいつも頂いておるわけですよね。
 ですからここん所をです、あれもおかげであったと、あとで分かるというのではなくて、おかげである事が分かっておるなら実感として、おかげに間違いがないのですから、有り難い、広大なおかげを頂いてと、いわゆるお礼八分に先を申し上げて、その二分の所をです心に引っかかっておった、難儀を感じておるならば、ここん所を二分の所の願い、又はお詫びと言った様な事に、していく様なおかげを頂いたら、愈々有り難い事になると思うんですよね。
   どうぞ。